手力雄神社の創建は860年とある。その頃又それ以前から南長森地区にはまばらではあるが、人家があって営みがあったと推定されます。南長森地区は境川と共存共栄で歴史を作ってきました。この地区の過去には木曽川・境川・才勝川・三井川などいくつもの本・支流が流れていましたし、又標高が低いこともあり、何度も洪水に悩まされてきました。1625年境川にも堤防が築かれましたが、その後も洪水が止まなかった。江戸時代は幕領・大垣藩領・尾張藩領・平藩領と領主も変遷しました。石高は細畑(755石)・切通(694石)・蔵前(670石)・高田(526石)・芋島(326石)・東中島(290石)とあり、水田耕作が営まれ人家もある程度あったものと思われます。廃藩置県で笠松県その後岐阜県となり南長森地区も稲葉郡に加えられました。1897年長森六か村(細畑・切通・蔵前・高田・芋島・東中島)は合併して南長森村が誕生しました。境川も木曽川本流南転後、昭和3年の境川放流路(那加掘割)工事・荒田川上流放水路工事により水勢を弱めました。1920年高山線開通(長森駅)・各務原鉄道開通(細畑駅・切通駅・手力駅・高田橋駅)で利便性が良くなり、1940年には岐阜市と合併し現在に至っています。                            (南長森町史より)

 (境川) 境川の名の由来は美濃国と尾張国の国境の川として名付けられました。境川は室町時代
      は木曽川の本流として濃尾の国境をなしていました。鵜沼から各務野台地の南岸を洗っ
      て、前渡・三井辺りを経て、新加納の南方平島・芋島の南を流れ、高田・蔵前・切通・
      細畑・領下の南側(現在の境川筋)を流路として天然の濠を形成していました。又、
      各務・蘇原方面から古市場附近を経て高田の出合に至る現在の境川附近は高田と各務野
      大地を隔てる一面の低湿地で、一雨降れば忽ち湖の様になり、東方の外濠の役を為し、
      北方も同じく荒田川を中心とした沼沢地でありました。更に西方荒田川の上流並びに
      岩戸方面より流れ出す水が幾条もの小河川となり蛇行し、底無しと云われる広大な低湿
      地が展け、此の集水は川となって、細畑・切通の境に於いて木曽川に落ちて西側の濠を
      為していました。こうして周囲を悉く水に依って隔絶された恰も島の様な要害に切通・
      蔵前・高田がありました。このような地勢でしたからこの地に城や砦が築かれた事も
      ありました。その後、洪水の都度流路も変わりました。1586年(天正14)の洪水
      以来、境川も木曽川の支流となり水量も衰えました。しかし木曽川の南転後も長森附近
      の境川は才勝川(中屋-大野-中島-蔵前-切通)三井川(中屋-大野-三井-芋島-
      高田-蔵前)等が合流し、何れも昔の木曽川の流路をなしたもので、川幅・水深ともに
      大川の体面を保ち続け、芋島・蔵前辺り迄は舟航の便も開けていましたが、反面一度
      洪水になるや、海抜10m位の長森では、緒川の区別がつかず氾濫し水害を避けること
      が出来ませんでした。長森が関連した主な洪水には以下のようなものがあります。
         寛政10年7月   長森濁流にのまれる
         明治26年8月
         明治29年9月
         大正6年9月    芋島にて境川堤防決壊
      上記なような行政の対策により、現在境川は落ち着いていますが、未曽有の災害が起
      こる昨今、又考える時期に来ているのでは。
                                  (長森史考より) 


 (中山道) 応仁の頃、稲葉山南麓-古市場-蘇原・各務-鵜沼へと通ずる道がありました。
       それ以前は美江寺-方県-芥見-各務原-鵜沼の道が利用されていました。加納-
       川手-領下-細畑-切通-高田-中屋-前渡への道も早くからありました。加納-
       鵜沼間は高田から各務野台地を経る道が最短距離でしたが、各務野の原野は未開で
       雑木に覆われ、住む人もいませんでしたし、新加納と高田の間は沼沢が広がり、
       境川が出水度に水量は増して一面湖水と化して、交通を阻んでいたためあまり利用
       されませんでした。信長・秀吉時代にも道路改修が行われましたが、本格的には
       江戸時代に入り参勤交代制・切通に陣屋が置かれたこともあり、中山道は整備され
       ました。長森には岐阜から上加納又は瑞竜寺付近を経て、領下・細畑に至り(此処で
       岐れて境川を渡って葉栗郡へも通じていました)切通、蔵前・手力神社を過ぎて、
       芋島・中島を通り(分岐して尾張方面へも通じていました)木曽川右岸をさかのぼり
       前渡方面に至る東西の道が、古くより通じていました。中山道はこの古い道筋に沿っ
       て改修されたり、全く新しい道が取り付けられました。細畑村地内は境川堤防を大き
       く改修して、堤上に新道を通し(旧道は誓賢寺・真宗寺門前を通じて切通村に至って
       いました)切通村地内も西の方は新道であり、伊豆神社付近から手力神社大鳥居前
       までは古い道を改修・拡張したものと思われる。一方各務原台地西端(新加納)と
       高田の間は広い滞水地であり、加えて台地と長森庄との標高差も大きく、これまで
       この間の往来は僅かに舟便によるほか殆どなかったので、もちろん新道が取り付け
       られました。然も標高差による急坂の難を避けるため、道路を緩く屈折させたりし
       ました。蔵前手力神社前と新加納を結ぶため、蔵前・高田間を改修又は新道取り付け
       が行われ、茲に長森地区内の中山道は貫通しました。この中山道を皇女和宮の行列が
       踏みしめたと思うと感慨深いものがあります。
                                 (長森史考より)

(手力雄神社) 農耕の神・水の神として霊験あらたかな神社。神社拝殿には「雨請御礼」のお札が
       奉納されています。昭和36年3月6日に県無形文化財に指定されました。手力雄
       神社と云えば手力祭が有名です。昔、祭礼日は5月・9月・11月と3回ありました。
       明治初年には9月と11月の2回になり、その後10月22日次に4月5日と1回になりま
       した。その間人手不足・資金不足で開催されない年もありましたが、現在は4月の
       第2週の土曜日におこなわれています。圧観は何と云っても花火です。祭礼日には
       長森13か村の氏子が境内に集まり、天天趣好を凝らした山(歌舞伎・講談の有名な
       場面を飾り立てる)を飾り、互に顕を競い、煙火を打ち上げて祭りの興奮を次第に
       盛り上げていきます。軈て夜に入り、中空に高く挙げられた行灯が点じられ、仕掛
       け花火をはじめ様々な手花火が次々とと披露されます。最後は山焼きへと至り、
       祭礼は最高潮に達します。
                               (長森史考より))