古代律令国家の時代、全国を五畿七道に区分していました。畿とは都(天皇居住)から500里以内の
土地で、大和国・山城国・河内国・和泉国・摂津国を五畿と云いました。七道とは東海道・東山道・
山陰道・山陽道・南海道・西海道・北陸道で、それぞれの国に国府が置かれ、畿内と官道で結ばれて
いました。30里(約16Km)毎に駅(食事・宿泊施設)があり、岐阜では不破駅・大野駅・方県駅・
各務駅・可児駅・土岐駅・大井駅・坂本駅がありました。各務駅より西では昔は中山道より北のコ-
スをとっていました。徳川家康が江戸に幕府を開くと、江戸と京都の道は重要性が増しました。1600
年には東海道が整備され,1602年には中山道が開かれ伝馬制が敷かれました。東海道は53次、中山道
69次、その中で鵜沼宿は江戸から53番目、加納宿は54番目の宿でした。鵜沼宿と加納宿の距離は、
中山道の各宿間で2番目に長い17Kmもあり、旅人休憩の「間の宿」が新加納に設けられました。
17Km,昔の人は健脚だとしても大変だったことでしょう。翌日も歩かなければならないし、そんな
無理は出来なかったから。私も鵜沼宿-加納宿の間を歩いてみました。
鵜沼➡高田
鵜沼宿は木曽川の河岸段丘上にあるのでしょうか。JR高山線・名鉄各務原線・国道21号線が走って
いる所より一段高くなっています。昔から土地の名前は、昔にあった状況を表しているといわれま
す。例えば高田は高い田が昔あったのでしょうか。砦が造られたこともあり、やや高台があったと
いう事でしょうか。そうしますと鵜沼は鵜が生息する沼があったのでしょうか。また、鵜沼は飛鳥
時代汗奴麻(うぬま)と藤原宮跡出土木簡にあります。奴が汗をかいて麻を作っている。麻が作ら
れていたのでしょうか。このような事を考えると面白いです。話は逸れましたが、鵜沼駅を降り21
号線(旧中山道)に入ると、右手に金縄山古墳があります。旧中山道の鵜沼地区には金縄山・二宮
神社・衣裳塚・坊の塚古墳とたくさんの古墳があります。古墳はただ墓としてではなく、その人の
権威を示すため、人が見やすい所に見栄え良く築かれるのが普通です。よって古墳がたくさんある
中山道上は高くなっていたと思われます。進むと21号線と旧中山道に分かれます。更に進むと道が
坂祝方面と鵜沼宿方面に分かれます。鵜沼宿方面に進むと大安川があり、そこを渡ると鵜沼宿です。
脇本陣・古い町並みがあり、私達を向かい入れてくれます。江戸期、旅人は美濃太田宿から来てこ
こを宿にしたのでしょうか。宿も多数あったことでしょう。鵜沼宿の中には二宮神社があります。
古墳がありますからかなり古い神社ではないでしょうか。歴史は書かれていませんので解りません
が、ここはかなり高台になっていて、犬山城・木曽川・伊木山、その向こうに小牧山も見る事が
できます。さらに中山道を進むと、木曽川泥流堆積跡(御岳山の爆発土砂)・西の見附跡(宿場の
出・入口に備えた簡易な防衛施設)があり、ここまでが鵜沼宿です。さらに進むと空安寺がありま
す。空安寺も歴史が書かれていませんでしたので分かりませんが、古墳は鎮座していた事でしょう。
さらに行きますと、羽場地区に入ります。名が示すように羽(鳥)場(小屋)があったのでしょう
か。羽場2丁目の先に津島神社があります。これも歴史が分かりません。境内に皆楽座(芝居小屋)
がありますが、これは明治15年完成ですから江戸期とは関りがありません。鵜沼からここまでに
防水貯水池がたくさんありました。江戸期の残存か明治以降に作られたかは分かりませんが、家屋
が有った事は確かです。さらに進むと旧中山道は21号線になります。その先右手に苧ヶ瀬池があり
ます。その先は関・江南線が交わる津島社まで何もありません。この神明社も歴史は分かりません。
この辺りは二十軒・六軒と名が示すように家屋も少なかったでしょう。六軒の竹林寺の前に六軒一
里塚の掲示があります。六軒公民館前に神明社、その先にも神明神社があります。両方とも歴史は
分かりません。ここから新加納までは何もありません。現在は町並みがぎっしりと並んでいますが、
江戸期は原野だったではないでしょうか。追剥が出たといわれてますから。那加西野町で中山道は
21号線と別れ新加納へと入ります。進むと右手に日吉神社があります。この神社は「げえろ祭り」
という祭りがあり、カエルが有名です。その先に新加納一里塚があります。鵜沼宿-加納宿の間は
17Kmと長かったため、真ん中あたりの新加納に休憩所が設けられました。宿泊施設も数件あった
という事です。ここには善休寺・小林禅寺があります。新加納は加納宿のミニバンで名付けられた
のでは。そこからさらに進み坂を下ると、各務原台地とお別れし、いよいよ高田に入ります。新加
納と高田の高低差は10m以上もあり、やはり高田は湿地帯であったようです。